変態紳士の雑記帳
変態紳士が適当に思想を垂れ流したり、日々の事を書いていくBlogです。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
誕生数6
長所 温和、家庭的愛情、誠実、親切、献身、持久力、外柔内剛、美的センス
短所 強情、頑固、怠惰、わがまま、独占欲、嫉妬、好色、感覚的、ぜいたく
深い思いやりに満ち、平和で穏やかな性格だ。頼まれるとイヤとはいえず、世話をやいてしまう。その重圧の ためにときどき自分が苦しんでしまうが、それでも献身的に持ち前の粘り強さを発揮してやりとおしてしまう。大変に親切で、まるで家族の一員のようにつくし てくれる。不幸な人に対しては同情を惜しまない。何とかして救いの手を差し伸べたいと思う。理屈よりは感情に支配されやすい傾向だ。
普通は地味でだれに対してもやさしいが、それでもときには激しく怒る。いちど怒ると粗暴で手のつけられないほど荒々しくなる。しかも、いちど恨むとなかなか忘れない。頑固でわがままになり、感情を露骨に表すだろう。
それでも6の人は慎重で堅実、まじめである。落ち着いて堂々とし、頑張りやで忍耐強く、一歩一歩前進していくのだ。野心はないようでいてけっこうある。 所有欲が強く、損得にも敏感だ。恋人でも金銭、物質でも、いちど手にしたら手放すことに抵抗するだろう。独占欲が強いので、嫉妬深い面もある。何事も慎重 なので疑い深くなる傾向もみられる。
6の人は他人から信頼感を持たれるだろう。どことなく頼りがいがあるのだ。控え目ではあるが、その言葉には説得力がある。相当やっかいなことに遭遇しても、どっしりとした風格でかたづけてしまう。
6の人の特長は、何よりもその芸術的才能やセンスである。抜群の審美眼を持ち、世の醜悪なもの、不正なことを徹底して嫌う。美を愛し、自他ともに美しく ありたいと願う。音楽や絵画などの芸術を鑑賞し、自分でも実践する。その方面では人生を楽しくさせる多芸な器用さを持っている。
ただし、美への愛を物質的な面に向けすぎたとき、6の人はぜいたくで好色、ケチで貪欲といったあらゆる感覚的享楽に溺れてしまう危険性があるので注意しなくてはならない。
★誕生数6の才能
誕生数6の人が天から与えられた才能は、献身的に愛を捧げることができる点である。
医者や教師など人に愛を捧げる仕事がいいだろう。平和運動なども、6の人こそができることであろう。
また、美を形として現す才能もある。一般にはとらえられないような神秘の陰に隠された美しいものを霊感のごとくにキャッチし、目に見える形にしてわれわれの前に現すのである。
注意すべきことは、献身にしても、ただやたらにつくせばいいというものではない。低級な欲望を助長させる奉仕や、相手を甘やかし依存心を植え付けるような奉仕はすべきではない。目先だけの感情に流されてはいけない。
最後に、欲に目がくらむことは禁物である。執着心が強いので、それをなくさないと激しい苦しみを味わうことになるだろう。
短所 強情、頑固、怠惰、わがまま、独占欲、嫉妬、好色、感覚的、ぜいたく
深い思いやりに満ち、平和で穏やかな性格だ。頼まれるとイヤとはいえず、世話をやいてしまう。その重圧の ためにときどき自分が苦しんでしまうが、それでも献身的に持ち前の粘り強さを発揮してやりとおしてしまう。大変に親切で、まるで家族の一員のようにつくし てくれる。不幸な人に対しては同情を惜しまない。何とかして救いの手を差し伸べたいと思う。理屈よりは感情に支配されやすい傾向だ。
普通は地味でだれに対してもやさしいが、それでもときには激しく怒る。いちど怒ると粗暴で手のつけられないほど荒々しくなる。しかも、いちど恨むとなかなか忘れない。頑固でわがままになり、感情を露骨に表すだろう。
それでも6の人は慎重で堅実、まじめである。落ち着いて堂々とし、頑張りやで忍耐強く、一歩一歩前進していくのだ。野心はないようでいてけっこうある。 所有欲が強く、損得にも敏感だ。恋人でも金銭、物質でも、いちど手にしたら手放すことに抵抗するだろう。独占欲が強いので、嫉妬深い面もある。何事も慎重 なので疑い深くなる傾向もみられる。
6の人は他人から信頼感を持たれるだろう。どことなく頼りがいがあるのだ。控え目ではあるが、その言葉には説得力がある。相当やっかいなことに遭遇しても、どっしりとした風格でかたづけてしまう。
6の人の特長は、何よりもその芸術的才能やセンスである。抜群の審美眼を持ち、世の醜悪なもの、不正なことを徹底して嫌う。美を愛し、自他ともに美しく ありたいと願う。音楽や絵画などの芸術を鑑賞し、自分でも実践する。その方面では人生を楽しくさせる多芸な器用さを持っている。
ただし、美への愛を物質的な面に向けすぎたとき、6の人はぜいたくで好色、ケチで貪欲といったあらゆる感覚的享楽に溺れてしまう危険性があるので注意しなくてはならない。
★誕生数6の才能
誕生数6の人が天から与えられた才能は、献身的に愛を捧げることができる点である。
医者や教師など人に愛を捧げる仕事がいいだろう。平和運動なども、6の人こそができることであろう。
また、美を形として現す才能もある。一般にはとらえられないような神秘の陰に隠された美しいものを霊感のごとくにキャッチし、目に見える形にしてわれわれの前に現すのである。
注意すべきことは、献身にしても、ただやたらにつくせばいいというものではない。低級な欲望を助長させる奉仕や、相手を甘やかし依存心を植え付けるような奉仕はすべきではない。目先だけの感情に流されてはいけない。
最後に、欲に目がくらむことは禁物である。執着心が強いので、それをなくさないと激しい苦しみを味わうことになるだろう。
失敗の美学
失敗は成功の母という言葉があります。
失敗する事で反省し、次は成功する可能性を増やす事でこの言葉は生きてきます。
とはいえ、一度で成功すれば良いに越した事はありません。
ところが、今の日本は減点主義を取っています。
プラスが多いがマイナスもある人間と、マイナスは無いがプラスも無い人間では、後者の方が選ばれる主義です。
高校受験、大学受験、就職、就職後・・・
それこそ死ぬまで常に失敗回避を求められるのが、今の日本です。
さて、こう聞くと絶望的な気分になってきますが、実際評価されるのはそう頻繁ではありません。社会では本人にも重要な局面であると解る様な所が大体評価されます。
そして、それらは来るのが解っていますから、ソレまでに似たような局面を体験したり、頭の中でシミュレートしたりして、先に失敗の可能性を潰しておくのが良いでしょう。
失敗するにも失敗するタイミングや局面というのもあります。
私も含め、人は失敗して痛い目を見ないと解りません。
上記のような取り返しのつかない局面を迎える前に、取り返しのつく小さな失敗を色々しましょう。
先に失敗を反省し経験を積んでいれば、同じような局面を迎えたときに上手く乗り切れます。
日本のバブル崩壊と世界のバブル崩壊の様に。
失敗する事で反省し、次は成功する可能性を増やす事でこの言葉は生きてきます。
とはいえ、一度で成功すれば良いに越した事はありません。
ところが、今の日本は減点主義を取っています。
プラスが多いがマイナスもある人間と、マイナスは無いがプラスも無い人間では、後者の方が選ばれる主義です。
高校受験、大学受験、就職、就職後・・・
それこそ死ぬまで常に失敗回避を求められるのが、今の日本です。
さて、こう聞くと絶望的な気分になってきますが、実際評価されるのはそう頻繁ではありません。社会では本人にも重要な局面であると解る様な所が大体評価されます。
そして、それらは来るのが解っていますから、ソレまでに似たような局面を体験したり、頭の中でシミュレートしたりして、先に失敗の可能性を潰しておくのが良いでしょう。
失敗するにも失敗するタイミングや局面というのもあります。
私も含め、人は失敗して痛い目を見ないと解りません。
上記のような取り返しのつかない局面を迎える前に、取り返しのつく小さな失敗を色々しましょう。
先に失敗を反省し経験を積んでいれば、同じような局面を迎えたときに上手く乗り切れます。
日本のバブル崩壊と世界のバブル崩壊の様に。
宗教について適当に
世の中には宗教という様々な信念があります。仏教・イスラム教・キリスト教という三大宗教は有名ですね。
これら宗教という物は人間の行動規範を定義する物=モラル、と言うのが欧米での常識です。
ですから日本人が良く言う「無宗教」というのは外人にはショックなわけです。こいつモラルねぇ!ってなるわけですからね。
日本の場合は神道というアニミズムが意識しないレベルで生活と一体化しているために、自分がとっている行動規範は神道から来ていると意識していないため、無宗教であると思ってしまうのです。
例えば「お天道様がみている」ですね。この概念は海外にはありません。
もしあったら「いぇーい!貯金箱が置いてあるぜ~!」といいながら自動販売機をぶっ壊したりしませんw
キリスト教圏では平日悪い事しても日曜に懺悔すれば良いや、みたいな曲がった考え方を持っている人が珍しくなかったりします。ばれなければ罪ではない、罪が無ければ罰を受けないという考え方ですね。
なんせ、YHVHと契約する宗教ですからねw
ところが、これが一般的な日本が海外に出ると困るわけです。
開国後、ただでさえ未開の土人扱いの日本人が無宗教とかもうお話にならないレベルですね。
そこで、新渡戸稲造が欧米向けに武士道という本を書きました。
これは日本には欧米の騎士道に似た武士道というものが有り、これが日本人の行動規範になっていると海外に紹介したわけです。
この本はルーズベルトやJFK等にも愛読されたちまち大ヒットし、和訳され日本に逆輸入される事態にまで発展しました。
この本は新渡戸稲造の日本人感を武士道をベースにわかりやすく紹介した本ですが、なかなか面白いので一読することをお勧めします。
また中国では独自の宗教が発達し、学問となり儒学や朱子学等の諸氏百家を生み出します。
昔の中国はかなり思想的に発達しており、孔子の教えである論語等はある程度のインテリ層であれば読んでいて当然といわれるような現代でも通用する思想を残しています。
この論語もなかなかに味わい深い事を書いてあるので、自分のふるまいを振り返る為にも一読するとよいでしょう。面白いですよ。
これら宗教という物は人間の行動規範を定義する物=モラル、と言うのが欧米での常識です。
ですから日本人が良く言う「無宗教」というのは外人にはショックなわけです。こいつモラルねぇ!ってなるわけですからね。
日本の場合は神道というアニミズムが意識しないレベルで生活と一体化しているために、自分がとっている行動規範は神道から来ていると意識していないため、無宗教であると思ってしまうのです。
例えば「お天道様がみている」ですね。この概念は海外にはありません。
もしあったら「いぇーい!貯金箱が置いてあるぜ~!」といいながら自動販売機をぶっ壊したりしませんw
キリスト教圏では平日悪い事しても日曜に懺悔すれば良いや、みたいな曲がった考え方を持っている人が珍しくなかったりします。ばれなければ罪ではない、罪が無ければ罰を受けないという考え方ですね。
なんせ、YHVHと契約する宗教ですからねw
ところが、これが一般的な日本が海外に出ると困るわけです。
開国後、ただでさえ未開の土人扱いの日本人が無宗教とかもうお話にならないレベルですね。
そこで、新渡戸稲造が欧米向けに武士道という本を書きました。
これは日本には欧米の騎士道に似た武士道というものが有り、これが日本人の行動規範になっていると海外に紹介したわけです。
この本はルーズベルトやJFK等にも愛読されたちまち大ヒットし、和訳され日本に逆輸入される事態にまで発展しました。
この本は新渡戸稲造の日本人感を武士道をベースにわかりやすく紹介した本ですが、なかなか面白いので一読することをお勧めします。
また中国では独自の宗教が発達し、学問となり儒学や朱子学等の諸氏百家を生み出します。
昔の中国はかなり思想的に発達しており、孔子の教えである論語等はある程度のインテリ層であれば読んでいて当然といわれるような現代でも通用する思想を残しています。
この論語もなかなかに味わい深い事を書いてあるので、自分のふるまいを振り返る為にも一読するとよいでしょう。面白いですよ。
魂について妄想してみる
霊が存在するか?にはそれぞれ賛否両論があるでしょう。霊とは目にも見えず触れる事すら出来ないから居るとしても証明できない物ですから居るとも居ないとも言えないわけです。基本的に人間は証明できるものを認識する物ですから当然でしょう。
しかし、この世の中には「目に見えないけれど存在はしているらしい」と学者が考え血眼になって検出方法を試している物質と言うものが存在してます。それはダークマターです。他の物質・電波と殆ど干渉しないためブラックホールのような論理的な存在の証明も困難という物質です。
もし霊が居るとしたらそういう物質で出来ているのではないかと考えています。存在するが光学的な反応はおろかあらゆる電波を透過し、質量が殆ど無いため他の物質とほとんど干渉しない物質で出来ているのではないかと。或いはエネルギー体・高次元体なのかもしれませんね。
受精卵が人としての体をなし、魂を繋ぎ止めることの出来る状態になったときに魂が注入される・・・そんな気がします。言葉を喋るようになった姪っ子に、子宮の状態を聞くと「水がいっぱいあった。雑音が凄かった。周りが赤かった」と言う事を言ってました(マジ)。年とともに忘れていくので、2歳児位が側に居たら試しに聞いてみてください。結構色んな事覚えているんで、色々質問してみると面白いかもしれません。たまに前世の記憶を持ってたりするらしいです。
死ぬということはこの逆で、カーボンの肉体が細胞維持活動が出来なくなるために魂を繋ぎ止められなくなった時に死んでしまうのでは無いでしょうか。
正常に肉体との接続が切れた魂は幽霊にはならず不可視の不反応の再注入可能な存在となります。しかし意識と記憶が強く結びついてしまうと魂が肉体に引っ張られてしまい、不完全な魂に成ってしまいます。これらがいわゆる幽霊と言う存在なんではないかと思います。肉体の記憶が完全に昇華されない限りいわゆる成仏は無いのでしょう。
もう仕事で作るものを大半作ってしまったので、ドキュメント整備しつつオカルト系の話をWebで漁ってたりしてたらこんな事をついつい考えてしまいました。
しかし、この世の中には「目に見えないけれど存在はしているらしい」と学者が考え血眼になって検出方法を試している物質と言うものが存在してます。それはダークマターです。他の物質・電波と殆ど干渉しないためブラックホールのような論理的な存在の証明も困難という物質です。
もし霊が居るとしたらそういう物質で出来ているのではないかと考えています。存在するが光学的な反応はおろかあらゆる電波を透過し、質量が殆ど無いため他の物質とほとんど干渉しない物質で出来ているのではないかと。或いはエネルギー体・高次元体なのかもしれませんね。
受精卵が人としての体をなし、魂を繋ぎ止めることの出来る状態になったときに魂が注入される・・・そんな気がします。言葉を喋るようになった姪っ子に、子宮の状態を聞くと「水がいっぱいあった。雑音が凄かった。周りが赤かった」と言う事を言ってました(マジ)。年とともに忘れていくので、2歳児位が側に居たら試しに聞いてみてください。結構色んな事覚えているんで、色々質問してみると面白いかもしれません。たまに前世の記憶を持ってたりするらしいです。
死ぬということはこの逆で、カーボンの肉体が細胞維持活動が出来なくなるために魂を繋ぎ止められなくなった時に死んでしまうのでは無いでしょうか。
正常に肉体との接続が切れた魂は幽霊にはならず不可視の不反応の再注入可能な存在となります。しかし意識と記憶が強く結びついてしまうと魂が肉体に引っ張られてしまい、不完全な魂に成ってしまいます。これらがいわゆる幽霊と言う存在なんではないかと思います。肉体の記憶が完全に昇華されない限りいわゆる成仏は無いのでしょう。
もう仕事で作るものを大半作ってしまったので、ドキュメント整備しつつオカルト系の話をWebで漁ってたりしてたらこんな事をついつい考えてしまいました。
真実、おぉ真実
私は仏陀の教えや論語や箴言集などは全て悟りだと思っています。悟ると言うことはこの世にある一定の法則を見つけ出すことであると考えています。それら悟りは真実と言う形で現れます。
例えば私が何かの真実を見つけた時、その真実は自分の何処のレイヤーに属した悟りなのかを考える必要があります。
私は男であり大人であり社会人であり独身であり人間であります。ある一つの真実が列挙したこれらのレイヤーの何処にとって真実なのかを考えるのです。
例えば「流れと言うものがある。この流れを読み、自らの望む場所へ上手く泳いでいくことが人生では肝要である」と言う真実を得たとします。
これが男だからそう言えるのか、大人だからなのか、或いは人類全体にいえる事なのか、それを考えなくてはいけません。論語等の哲学は数多の真実のうち、人類に普遍に当てはまるものを集めたものであり、物によっては男に当てはまる真実と言うのも在ります。(結婚についての男の考えとかw)
そしてこの悟りとはあくまで「それを唱えた人が知った真実」であり、「他人には当てはまらないかもしれない」と言うことを忘れてはいけません。
たとえ良い本を読んだり、人から新しい価値観を話されたりしたとしても、それを鵜呑みにするのではなく、その考え・話を自分なりに消化し、それについて自分がどう思ったかを考えるのです。
そうすることで、他人の悟りから導き出された自分自身の悟りが開けるでしょう。「あぁ、まったくそのとおりだ」と同意する事になったとしても、自分自身が本当にそう思ったのならそれは自分の悟りです。「だれだれが言ったからそうだ」「本に書いてあったからそうだ」では思考停止した狂信者の妄言と何も変わりません。
どんな本だろうと、どんな名言だろうと、どんな宗教の教えだろうと、まず自分でその言葉を受け止めその言葉に対して自らの言で注釈をつける位の勢いで考えましょう。
その結果出てきた結論は間違いなくあなた自身の真実であり、それが悟りになります。
悟りと言うとなにか一つのことを知ったら終わりという感じがしますがそんなことはありません。日々勉強の世界であり、真実は数多にあります。これを悟ったら・これを知ったら終わりという事はありません。
あまたの悟りの中で違いがあるとしたら有用度くらいです。くっだらねー悟りの方が多いですが、たまーにびっくりする様な世界の真実を引っ張り出すことがあります。
ここら辺が真実探しの楽しいところですね。
例えば私が何かの真実を見つけた時、その真実は自分の何処のレイヤーに属した悟りなのかを考える必要があります。
私は男であり大人であり社会人であり独身であり人間であります。ある一つの真実が列挙したこれらのレイヤーの何処にとって真実なのかを考えるのです。
例えば「流れと言うものがある。この流れを読み、自らの望む場所へ上手く泳いでいくことが人生では肝要である」と言う真実を得たとします。
これが男だからそう言えるのか、大人だからなのか、或いは人類全体にいえる事なのか、それを考えなくてはいけません。論語等の哲学は数多の真実のうち、人類に普遍に当てはまるものを集めたものであり、物によっては男に当てはまる真実と言うのも在ります。(結婚についての男の考えとかw)
そしてこの悟りとはあくまで「それを唱えた人が知った真実」であり、「他人には当てはまらないかもしれない」と言うことを忘れてはいけません。
たとえ良い本を読んだり、人から新しい価値観を話されたりしたとしても、それを鵜呑みにするのではなく、その考え・話を自分なりに消化し、それについて自分がどう思ったかを考えるのです。
そうすることで、他人の悟りから導き出された自分自身の悟りが開けるでしょう。「あぁ、まったくそのとおりだ」と同意する事になったとしても、自分自身が本当にそう思ったのならそれは自分の悟りです。「だれだれが言ったからそうだ」「本に書いてあったからそうだ」では思考停止した狂信者の妄言と何も変わりません。
どんな本だろうと、どんな名言だろうと、どんな宗教の教えだろうと、まず自分でその言葉を受け止めその言葉に対して自らの言で注釈をつける位の勢いで考えましょう。
その結果出てきた結論は間違いなくあなた自身の真実であり、それが悟りになります。
悟りと言うとなにか一つのことを知ったら終わりという感じがしますがそんなことはありません。日々勉強の世界であり、真実は数多にあります。これを悟ったら・これを知ったら終わりという事はありません。
あまたの悟りの中で違いがあるとしたら有用度くらいです。くっだらねー悟りの方が多いですが、たまーにびっくりする様な世界の真実を引っ張り出すことがあります。
ここら辺が真実探しの楽しいところですね。