変態紳士の雑記帳
変態紳士が適当に思想を垂れ流したり、日々の事を書いていくBlogです。
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都会っ子と田舎者
都会っ子と田舎者は何が違うのでしょうか?
大体の人のイメージは都会っ子はセンスがある、俊敏、鮮やか、華やか、というようなイメージで、田舎者はその逆、と言ったところになるでしょう。
渋谷・原宿・六本木をみてるとそんな感じを受けます。
ところが、あの町のカルチャーを先導しているのは、東京の衛星都市である群玉千葉茨木県民が殆どなのです。
実際に住んでる人はそういうカルチャーを冷ややかな視線で見ているのです。例えばヤマンバとか。
メディアと人々の憧れが作り上げた都会と言う虚像に周りの人間が踊って描かれたのが、都会と言うイメージです。
本当の都会っ子と田舎者の違いはこういったことではなく、環境の違いから来る歴然とした差が有るのではないかと考えます。
それは、「自分の事を客観視できる」「無言で他人に合わせられる」と言う点だと思います。
首都圏では、幼稚園の頃からクラスが三つくらいできたりします。小学校では最低2クラス30*2=60人位はできます。自分と親しか居ない環境から、大勢の自分と同じ年の他人の中に放り込まれるわけです。
地方では、小学校で一学年1クラス20人とかも珍しくありません。田舎だと10人以下で学年が合体して学校で3クラスみたいな感じの所もあると聞きます。
人口が少ない為、幼少の頃に自分と同じ年の大勢と一緒に生活する、と言う経験を積むタイミングが地方ではないのです。
大体20人位ですと、仲良しグループが最大でも三つ位になって、それぞれの集団毎にヒエラルキーを形成します。
都会でもこの様なグループは形成されますが、沢山形成されるので子供の頭では把握してない、知らない人も出てきます。
こういった子が、例えば賞を取ったりすると、「自分の知らない同じ年の奴」が凄いことをしているという経験を積むことができます。
また、多種多様な正確・技能をもった他人と幼少から多くかかわる生活に触れると、大勢の中の自分、と言う視点が育ちます。たとえば運動会なんかそういう視点を養うよい機会でしょう。
コレが田舎ですと、自分→集団→学年がヒエラルキー的にストレートにつながる範囲の子供しかおらず、大勢の中の自分と言うのを実感できる時間が少なくなります。自分の周りの世界と知らない世界の子供と触れる事がないと、自分よりもすげぇ奴は腐る程居る、と言う事を実感する時間が無いと言うことに成ります。
こうなりますと、まったくフラットな第三者、という視点が感覚的に育ってないのですから、自分と相手には必ず上下関係が生まれるわけです。
そうした場合当たり前の事ですが、殆どの人は他人よりも自分の事を優先するでしょう。
常に、何を判断するにしても必ず自分を物差しにして物事を計るようになるわけです。
都会では同年代でも数多くいますし、そうでなくても人は腐る程居ます。そう言う中で生きていく為には、他人に合わせてスムースに振舞う事が求められます。
また多くの人の輪に放り込まれる事で、自分以外にも優れた奴も居るし、劣ってる奴も居る。と言う事を肌で実感します。
そうすると、自分自身はどうなのかと、周りを見渡して自分をみる視点が生まれます。この視点を育てると、自分を客観視できる様になるわけです。
ですから、都会っ子はヤンキーにはなりません。プークスクスってやられるのが目に見えてるからですw
大体の人のイメージは都会っ子はセンスがある、俊敏、鮮やか、華やか、というようなイメージで、田舎者はその逆、と言ったところになるでしょう。
渋谷・原宿・六本木をみてるとそんな感じを受けます。
ところが、あの町のカルチャーを先導しているのは、東京の衛星都市である群玉千葉茨木県民が殆どなのです。
実際に住んでる人はそういうカルチャーを冷ややかな視線で見ているのです。例えばヤマンバとか。
メディアと人々の憧れが作り上げた都会と言う虚像に周りの人間が踊って描かれたのが、都会と言うイメージです。
本当の都会っ子と田舎者の違いはこういったことではなく、環境の違いから来る歴然とした差が有るのではないかと考えます。
それは、「自分の事を客観視できる」「無言で他人に合わせられる」と言う点だと思います。
首都圏では、幼稚園の頃からクラスが三つくらいできたりします。小学校では最低2クラス30*2=60人位はできます。自分と親しか居ない環境から、大勢の自分と同じ年の他人の中に放り込まれるわけです。
地方では、小学校で一学年1クラス20人とかも珍しくありません。田舎だと10人以下で学年が合体して学校で3クラスみたいな感じの所もあると聞きます。
人口が少ない為、幼少の頃に自分と同じ年の大勢と一緒に生活する、と言う経験を積むタイミングが地方ではないのです。
大体20人位ですと、仲良しグループが最大でも三つ位になって、それぞれの集団毎にヒエラルキーを形成します。
都会でもこの様なグループは形成されますが、沢山形成されるので子供の頭では把握してない、知らない人も出てきます。
こういった子が、例えば賞を取ったりすると、「自分の知らない同じ年の奴」が凄いことをしているという経験を積むことができます。
また、多種多様な正確・技能をもった他人と幼少から多くかかわる生活に触れると、大勢の中の自分、と言う視点が育ちます。たとえば運動会なんかそういう視点を養うよい機会でしょう。
コレが田舎ですと、自分→集団→学年がヒエラルキー的にストレートにつながる範囲の子供しかおらず、大勢の中の自分と言うのを実感できる時間が少なくなります。自分の周りの世界と知らない世界の子供と触れる事がないと、自分よりもすげぇ奴は腐る程居る、と言う事を実感する時間が無いと言うことに成ります。
こうなりますと、まったくフラットな第三者、という視点が感覚的に育ってないのですから、自分と相手には必ず上下関係が生まれるわけです。
そうした場合当たり前の事ですが、殆どの人は他人よりも自分の事を優先するでしょう。
常に、何を判断するにしても必ず自分を物差しにして物事を計るようになるわけです。
都会では同年代でも数多くいますし、そうでなくても人は腐る程居ます。そう言う中で生きていく為には、他人に合わせてスムースに振舞う事が求められます。
また多くの人の輪に放り込まれる事で、自分以外にも優れた奴も居るし、劣ってる奴も居る。と言う事を肌で実感します。
そうすると、自分自身はどうなのかと、周りを見渡して自分をみる視点が生まれます。この視点を育てると、自分を客観視できる様になるわけです。
ですから、都会っ子はヤンキーにはなりません。プークスクスってやられるのが目に見えてるからですw
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